結局どういう立場だろうが、納得してはくれないのでは?という疑心暗鬼。

結局ね、無知な人を『無知だ』という風に直接的に言ってしまう人は、たとえその通りであったとしても逆上してしまうっていうことですよ。指摘する側とすれば指摘しているんだから、感謝されても非難される謂れは無いと思ってるかもしれないけど、そのように思った時点で、相手側に伝えたい事は全て無に帰すと思っていいだろう。不思議な物で、人間は心に思っている事がどこかで外に出てくる。それが口調であったり態度であったり・・・そこは様々であるのだが、相手にそれを察されてしまった時点で、相手は何も聞いてはくれない。ただ受け流すのみである。

私がこう思っているのは、会社にもそういう人がいるし、はてなダイアリーにおいて今年の初旬に騒がせた『南京問題』に対する反応が、何かそのにおいを感じてしまったからだ。その論争している同士の事に関してはさておき、その議論を眺めている人を『自称中立』と称して、レッテルを貼っていく。何かそれは自分達が戦っている相手がしている事と全く同じ事をしているんじゃないか?って思ってしまったからだ。そしてその『自称中立』という言葉の中には、先述のある種の蔑みを含ませているようにしか思えなかった。そして暫くそこから離れたわけである。そして、また戻ってきたが相変わらずそういう『自称中立』だなんだって・・・と思ってしまう。
その言葉を発した人々は、悪気があっていっているわけではないのも分かっているし、もしかしたら親心からそうやって教授していると思っている人もいるかもしれない。だが、何か心の中に不快感を覚えるのはどうしてだろうか?

当の問題については私は『無知』である。それは宣言するし、故に否定派にも肯定派にも中間派にもつく事は出来ない。これは沖縄戦における集団自決(自決強要事件も含める)での大江健三郎の言葉を支持するか否かにおいても同様だ。ただ、それに関して議論する人を眺める事は出来るだろう。メタ視点だなんだって言って嫌う人は絶対にいるけど、この一連の動きについて思った事を言ってみた。

勇気を持って踏み出して失敗して死ぬ可能性

http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886

この考え方が重要なのはわかるけど、この考え方を全てだと思ったら、おそらくその先に見えるのは破滅のみだろう。
人間、ポジティブな考え方に靡くというのはよく分かる。その方が聞き心地がいいからなんだけど、この考え方が通用するor通用したのは、世代で言えば若い世代(せいぜい大学まで)で時期で言えば高度経済成長期までだろう。少なくとも大っぴらにこんな事を今の時代に言っていたら、嘲笑される事受けあいだろう。
何故か?
一言で言えば、今の時代は『失敗すれば最悪、死まで直行する』からだ。
この言葉自体いつの時代でもあったんだけど、最近のこの言葉は随分ハードルが下がってきて、ついそこらで生きていた人があっという間にこの言葉の区域にまで入ってきて樹海に向かう、なんて事もあるわけで。そしてその時に責任を取れるのは自身のみなのだ。自己責任という言葉は使いたくないが*1、それが当て嵌まる。だとすれば安易に『勇気』なんて言葉を使ってその人の人生をめちゃくちゃにしてしまうのは・・・と思ってしまうのだ。今、勇気を大々的に言えるのはせいぜいスポーツくらいなものかもね。

*1:自己責任とは往々にして他者の責任逃れか、対岸の火事であるが故に用いられる

街づくりに大変興味がある越谷レイクタウン

さて昨日・今日は鉄道業界は歴史的にも大きな転換点となった事は疑いが無い。
小田急ロマンスカー東京メトロ千代田線の北千住駅から直通
・寝台急行『銀河』の廃止
おおさか東線の開業(南北アクセスの不便さの解消)
・各地で行われたダイヤ改正
・・・etc
大きな所はこんな感じだが、小さい部分を見るとその数は膨大だ。
そんな中、自分にとっても今日は無視できない日になった。私はせんべいで有名な埼玉の某市に住んでいるのだが、『越谷レイクタウン』の造成地から近い所に住んでいる。そんなわけだから『越谷レイクタウン駅』の開業には少なからずの想いを持っている。
そしてその想いを増幅しているのは、自分の出身高校がこの新駅の目と鼻の先にあるからだ。自分が通学していた頃は周りは田圃なのか、単純に何も手をつけていない荒地だったのかは知らないが、とにかく周りにコンビニはおろか家も数軒建っている程度だった。そして最寄り駅は『南越谷駅』か『吉川駅』でどちらも徒歩40分はかかるという場所で、生徒は100%自転車通学を余儀なくされていた。冬は北風が何も遮蔽物がないから、自転車を漕ぐ生徒たちを襲う。そんな学校の目の前に駅が出来るのだから、これは学校史に残る革命的な出来事だ。何年前かは忘れてしまったが、埼玉も学区というものが撤廃された。そういう中で、この立地条件は十分なアピールになる*1。これで、予備校あたりが駅前に出来たら、高校そのものが生まれ変わるかもしれない。OBの妄言あるいは戯言だけど。

越谷レイクタウン』自体のコンセプトは横に置くとして、立地自体は私は決していいとは思わない。東京に出るにしても必ず乗換を伴うし、武蔵野線は前述の通り天候に左右されやすい路線の一つだ。かなりハンディを背負ってるというのが私の印象だ。
それだけに街づくりには大変興味がある。一つ、都市計画という言葉で言い表しても様々な事が考えられるが、その全てにおいて重要なのは、いかに住民が快適により長くこの街にいようと思えるか、という事である。

*1:ただ、武蔵野線の天候への対応力の無さは致命的だが

人を処罰する場合、気分や感覚を根拠にしてはいけないという話。

参考http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/11/news097.html


ああ、やっぱりこのラインまで押し寄せてきたか。
児童ポルノの単純所持違法化という事自体も、かなり法解釈・法運用の側から見ると問題があるのに、とうとう現実に存在しない人物の人権を取り出して守るべきという、裁判所すら認めていないレトリックを出してくるとは。

まず人を処罰する場合、その条文どおりに解釈する必要性があって、即ち類推適用が認められない(故にそれを回避する為に、立法府は条文をギリギリまで抽象化させる事でその問題をクリアしようとする)。民法と違って人に元来備わる自然権を刑法をはじめとする法律は奪う為に、その恣意的な解釈を排除する為だ。
もう一つ人を処罰するには、その処罰の根拠が明確にされる必要性がある。つまりは現実にそれが放置される事によって、どんなリスクがどれだけ生まれるかという事を明確にしなければならない。即ち、気分が悪いからとかそのような理由をもって、処罰を伴う法律は作られるべきではない。

ではこの法律はどうか?
この法律の場合、極めて問題になるのは後者の方なのだ。それは、この法律は非常に聞き心地が良いという事なのだ。理念として子供の保護と健全な育成を目的としている為に、子供に肩入れする親にとっては『あって困る法律ではない』わけだ。即ち積極的に肯定する(今回のアグネスみたいな人間)人のみならず消極的に肯定する、あまり使いたくない言葉だが『サイレント・マジョリティ』が多くいるというのが現状で、むしろこの法律に反対する人はどちらかといえば少数派になっているのが現状でないか? 大体この『サイレント・マジョリティ』は気持ちは分かるとか自分には関係ないこの法律で子供が守られるなら好都合と思っている人も多いだろう。
しかしである。先述したとおり、刑罰を伴うという事は自然権を奪う事に他ならない。そのような重大な問題に差し掛かった時に、気分や感覚、もっと専門的な言葉で言えば『公共の福祉』を根拠にそのような条文を並べる事が果たして正しい事なのか? そもそも現時点で、(架空の人物が登場する二次元の)児童ポルノを所持する人間と児童を相手に起こした犯罪者において、相関関係が証明されているデータや論文は何一つない。そんな中で、一体どうしてこのような運動が起きてしまうかが私には理解できない。
誤解の無いように言っておくが、私は現状の児童ポルノ法に関しては、現実の児童を相手にしている以上被害が伴っている事もあって反対していない(もっとも刑法でも十分対応出来る範疇の問題じゃないかとは思うが)。私が問題にしているのは気分や感覚をもってして人の権利を奪い、あまつさえ、それで被害を受けているのが一体誰なのか全く分からない、この運動の根拠なのだ。


http://blog.livedoor.jp/soylent_green/archives/51290442.html
言っておくが『かもしれない』で人は処罰できない。それは予防検束(予防拘禁)と言って、極めて前近代的な刑罰に他ならない。日本でも治安維持法がこれを用いる事で対処していたが、後年の評価は『日本史上、最低最悪の悪法』である事を知らないわけではないだろう。むしろ親が恐怖するからそういう人を処罰する事の方が、私にはよっぽど恐怖なのだが。

百合という領域ならずっと森永みるくのターン

百合ップルという言葉があって、私も声優が好きな手前そういう腐女子ならぬ腐男子的な感覚を持ち合わせているなと思う今日この頃、去年そして今年にかけての『少女セクト』の発見や『アップル・デイ・ドリーム』という4コマ漫画での百合の発見は、まさにショッキングだった。そんな自分にとって森永みるくとの出会いはまさに福音と言って良いだろうと思う。
最初の出会いは『百合姫』だった。絵柄も私のストライクゾーンだったのだが、それ以上にこの微妙な心理をどうして上手く表現できるのか? その点においてそれを鑑賞しニヤニヤ・ドキドキ・ハラハラという様々な感情が私の心に渦巻く。森永みるくはそういう意味では稀代の百合漫画家と思う。女性同士の関係ーそれは百合ーを扱った作品ならずっと彼女のターンであるのは疑う余地が無い。
それだけに彼女の最新作である『GIRL FRIENDS』はまさに女性同士の友情という彼女の得意のゾーンにおいて、最大限の力が発揮されているように思う。『百合姫』の場合どうしても読切になってしまう部分があるーそれはそれで魅力的だがーのだが、ストーリー仕立てになっている今作ではより登場人物たちの感情の動きが明確に示されている所に好感が持てる。


・・・なんて堅い事を書いてみたりしたけど、結論としては森永みるくは至高の百合漫画家だという事だ。

平野綾が売れる理由。

正確に言えば売れる理由というよりは、様々な一般層が見る雑誌に出られる理由。

?単純に声優としての作品への参加数が多くなった。
?涼宮ハルヒのブームに上手く乗れた。

これは考えられる理由だが、それだけでは不足だ。それこそこれだけで出られるアニメは「エヴァ」などの社会を席巻するような作品に限られるだろう。
とするとやはり次の部分が大きいと思われる。

?事務所が「スペースクラフト」である。

スペースクラフトといえば声優もいるがそれと同時に栗山千明黒谷友香などが在籍する事務所なのだ。いわば普通の芸能事務所なのである。つまり。そういう一般層が読む雑誌社などへの営業活動のノウハウは十分に持っている。テレビやラジオも然りだ。そのノウハウを平野綾にも適用したら・・・?
最初にあげた2つに加え、?という要素が加わり平野が声優の通常の活動を超す活動が出来るわけだ。