人を処罰する場合、気分や感覚を根拠にしてはいけないという話。

参考http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/11/news097.html


ああ、やっぱりこのラインまで押し寄せてきたか。
児童ポルノの単純所持違法化という事自体も、かなり法解釈・法運用の側から見ると問題があるのに、とうとう現実に存在しない人物の人権を取り出して守るべきという、裁判所すら認めていないレトリックを出してくるとは。

まず人を処罰する場合、その条文どおりに解釈する必要性があって、即ち類推適用が認められない(故にそれを回避する為に、立法府は条文をギリギリまで抽象化させる事でその問題をクリアしようとする)。民法と違って人に元来備わる自然権を刑法をはじめとする法律は奪う為に、その恣意的な解釈を排除する為だ。
もう一つ人を処罰するには、その処罰の根拠が明確にされる必要性がある。つまりは現実にそれが放置される事によって、どんなリスクがどれだけ生まれるかという事を明確にしなければならない。即ち、気分が悪いからとかそのような理由をもって、処罰を伴う法律は作られるべきではない。

ではこの法律はどうか?
この法律の場合、極めて問題になるのは後者の方なのだ。それは、この法律は非常に聞き心地が良いという事なのだ。理念として子供の保護と健全な育成を目的としている為に、子供に肩入れする親にとっては『あって困る法律ではない』わけだ。即ち積極的に肯定する(今回のアグネスみたいな人間)人のみならず消極的に肯定する、あまり使いたくない言葉だが『サイレント・マジョリティ』が多くいるというのが現状で、むしろこの法律に反対する人はどちらかといえば少数派になっているのが現状でないか? 大体この『サイレント・マジョリティ』は気持ちは分かるとか自分には関係ないこの法律で子供が守られるなら好都合と思っている人も多いだろう。
しかしである。先述したとおり、刑罰を伴うという事は自然権を奪う事に他ならない。そのような重大な問題に差し掛かった時に、気分や感覚、もっと専門的な言葉で言えば『公共の福祉』を根拠にそのような条文を並べる事が果たして正しい事なのか? そもそも現時点で、(架空の人物が登場する二次元の)児童ポルノを所持する人間と児童を相手に起こした犯罪者において、相関関係が証明されているデータや論文は何一つない。そんな中で、一体どうしてこのような運動が起きてしまうかが私には理解できない。
誤解の無いように言っておくが、私は現状の児童ポルノ法に関しては、現実の児童を相手にしている以上被害が伴っている事もあって反対していない(もっとも刑法でも十分対応出来る範疇の問題じゃないかとは思うが)。私が問題にしているのは気分や感覚をもってして人の権利を奪い、あまつさえ、それで被害を受けているのが一体誰なのか全く分からない、この運動の根拠なのだ。


http://blog.livedoor.jp/soylent_green/archives/51290442.html
言っておくが『かもしれない』で人は処罰できない。それは予防検束(予防拘禁)と言って、極めて前近代的な刑罰に他ならない。日本でも治安維持法がこれを用いる事で対処していたが、後年の評価は『日本史上、最低最悪の悪法』である事を知らないわけではないだろう。むしろ親が恐怖するからそういう人を処罰する事の方が、私にはよっぽど恐怖なのだが。