結局どういう立場だろうが、納得してはくれないのでは?という疑心暗鬼。

結局ね、無知な人を『無知だ』という風に直接的に言ってしまう人は、たとえその通りであったとしても逆上してしまうっていうことですよ。指摘する側とすれば指摘しているんだから、感謝されても非難される謂れは無いと思ってるかもしれないけど、そのように思った時点で、相手側に伝えたい事は全て無に帰すと思っていいだろう。不思議な物で、人間は心に思っている事がどこかで外に出てくる。それが口調であったり態度であったり・・・そこは様々であるのだが、相手にそれを察されてしまった時点で、相手は何も聞いてはくれない。ただ受け流すのみである。

私がこう思っているのは、会社にもそういう人がいるし、はてなダイアリーにおいて今年の初旬に騒がせた『南京問題』に対する反応が、何かそのにおいを感じてしまったからだ。その論争している同士の事に関してはさておき、その議論を眺めている人を『自称中立』と称して、レッテルを貼っていく。何かそれは自分達が戦っている相手がしている事と全く同じ事をしているんじゃないか?って思ってしまったからだ。そしてその『自称中立』という言葉の中には、先述のある種の蔑みを含ませているようにしか思えなかった。そして暫くそこから離れたわけである。そして、また戻ってきたが相変わらずそういう『自称中立』だなんだって・・・と思ってしまう。
その言葉を発した人々は、悪気があっていっているわけではないのも分かっているし、もしかしたら親心からそうやって教授していると思っている人もいるかもしれない。だが、何か心の中に不快感を覚えるのはどうしてだろうか?

当の問題については私は『無知』である。それは宣言するし、故に否定派にも肯定派にも中間派にもつく事は出来ない。これは沖縄戦における集団自決(自決強要事件も含める)での大江健三郎の言葉を支持するか否かにおいても同様だ。ただ、それに関して議論する人を眺める事は出来るだろう。メタ視点だなんだって言って嫌う人は絶対にいるけど、この一連の動きについて思った事を言ってみた。