付き合って別れたら死ぬかもしれない。

別に別れたショックで死ぬと言うわけではない。勿論、それが死ぬ原因の一つかもしれないが、しかしあくまでもそれは一部分の問題に過ぎないのだ。自分が死んでしまう理由はむしろ自分と外部との折り合いの悪さによるものだろう。

秋葉原の通り魔事件を聞いた時、そしてその後の報道や論調の流れを見て、そして後期医療制度改革原油高の問題を見るに付け、この先の日本が良くなる事はまず有り得ない事を確信した。


・政治家が揃いも揃って馬鹿しかいない。しかしその馬鹿を選んでいるのは自分ら国民だ。つまり国民はもっと馬鹿なのだ。
ヒトラーは民主主義を衆愚政治だと切捨て独裁政治を歩んだ。今の日本がそれでは衆愚ではないとどうして言える。もしかすると衆愚の度合いではナチスが台頭した頃のドイツよりも酷いかもしれない。独裁者すら誕生させられず、各々がありとあらゆる方向を向いてしまっている今、独裁者というのは日本においては死語なのかもしれない。
もっとも衆愚だからこそ独裁者を選び、作り上げて言ったのかも知れないが。

・こういう時の学者はなぜどこかに擦り寄ろうとするのか?
マスコミに頻繁に出る学者はともかくとして、学者は学問の自由や学問の中立性を声高にアピールしなければならない時代なのに、こぞって御用学者やマスコミ御用達学者に成り下がるのか? あるいは端から大衆には理解できないと高をくくるのか? 理論は往々にして難しい物で、しかもそれが絶対的な正しさを保証する物でもないが、今、中途半端にではなく完全に近い情報を持って立ち向かえるのは彼らだけなはずだ。


挙げればまだある(かもしれない)が、私は多分、赤木智弘のように『希望は、戦争』よりも『希望は、地球滅亡』と考えているのかもしれない。まるで中二病を患ったの如く、崖から滑り落ちる地球文明というのを熱望しているのかもしれない。そしてある一方では、それでも一縷の希望を捨てきれずにいる自分がいるのかもしれない。
『〜かもしれない』が多すぎて非常に主体性の無い文章だと自分でも思うが、これだけの何もかもが多様化してしまった時代に、自分自身を自分自身だと認識できる人間は非常に強い。自分はその強さを持ちたいと思う一方、自分がこのまま消失する事もどこかで望んでいる。

もし自分の中のネジが30本くらい錆びていたり、緩んでいたり、取れていたりしようものなら、秋葉原の事件と同じ事を自分もしていたかもしれない。主体性無き今に加藤の行った事は、極めてはっきりとした主体が浮かぶように思う。決して共感は出来ない、なのに心の奥底で非常に良からぬ感情が蠢いている。そしてそれに心底嫌悪感を抱く。極めて境界がぼやけてしまった自分の主体はどこにあるのだろうか。
ただ、自分のネジが今この時間も、少しずつ錆び付いているのを感じている。10本・・・20本となった時、自分は果たして死を選ぼうとするのか、それともそれ以外の行動をしてしまうのか?


今、『外部』も怖いが『自分』もやはり異形の存在で怖くなっている。